歴史大好き人間なので、前々から機会があればぜひ訪問させて頂きたいと思っていたお寺の一つが八王子にある信松院というお寺です。曹洞宗の寺院なのですが、信松院を創建されたお方は、なんとあの戦国最強と呼ばれた武田信玄の四女である松姫様です。
歴史に興味がある方であれば松姫の名前を聞いてピンとはこなくても、のちに覇王と呼ばれた織田信長と武田信玄が縁故関係を結んだ当事者同士と言えば分かるかもしれません。
1567年、織田信長の嫡男である織田信忠(当時11歳)と婚約したのが当時7歳の松姫様だったので、織田信忠と婚約したお姫様と言った方がピンとくるかもしれませんね。
ここで松姫様の生涯を武田家の行く末とともに振り返ってみたいと思います。
松姫の誕生
1561年、松姫は甲斐の国にて、甲斐の虎と言われた武田信玄の五女として誕生しました。母親は、側室「油川夫人」です。武田信玄と油川夫人の間で出来た子供としては、五男の仁科盛信や後に上杉景勝の正室になる菊姫が有名ですね。
松姫が生まれた時に、武田信玄は上杉謙信と有名な川中島の戦いで何度も戦っており、武田信玄は躑躅ヶ崎館に帰って来た時に、大きな松を見て『松姫』と命名し武田信玄も可愛がったと言われています。
織田信忠との婚約設立
そもそも織田信長と武田信玄は初めから敵対していた訳ではありませんでした。
尾張の大名であった織田信長は、1560年の桶狭間の戦いにおいて今川義元の首級を上げる大勝利を挙げ一躍その名を天下に鳴り響かせました。その後、美濃の斎藤氏を辛抱強く攻め1567年に美濃を攻略し、次の将軍候補の足利義昭が織田信長を頼るなど急速に勢力を拡大していました。
一方の武田信玄は、今川義元・北条氏康との三国同盟を締結していたものの、桶狭間の戦いで今川義元がまさかの討ち死となり、今川家は今川氏真が継いだものの、三河では徳川家康が独立するなど今川家の形勢が徐々に弱まり1567年には三国同盟が破綻するなど情勢が激変していました。
1567年に織田信長が美濃を領国としたことから織田家と武田家は直接、領国を接することになり両家の関係が急接近しました。そうした中で決まったのが、織田信長の嫡男の織田信忠と松姫との婚約でした。ただ、織田信忠はまだ11歳であり、松姫に至ってはまだ7歳だったので、松姫が輿入れするには幼過ぎる為、婚儀は二人の成長を待ってすることになりました。
もちろん、政略結婚なので、当人同士は会った事もありませんでしたが、織田信長は息子の織田信忠に贈り物や手紙を小まめに贈るように指示していたと思われます。こうして、織田信忠と松姫は文通するようになりました。
武田家と織田家の同盟破綻による婚約破棄~武田信玄対織田信長!
1568年、織田信長の尽力により朝廷から将軍宣下を受けて、足利義昭が足利幕府の第15代将軍に就任しました。ただその後、織田信長と将軍である足利義昭との関係が悪化していきます。
将軍の足利義昭は各地の大名に御内書(室町幕府の将軍が発給した私的な書状の形式をとった公文書)をしきりに送っていましたが、織田信長は意見書である『異見十七カ条』を送付しています。分かりやすく言うと信長の許可なしに御内書を送るな!勝手なことはするな!ということですね!怖いのは、第14代将軍の足利義輝と第6代将軍の足利義教の名前をわざわざ出しており、はっきり言うと脅しですね!信長様怖いお方ですね・・・(苦笑)
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1973年10月、ついに武田信玄は将軍・足利義昭の御内書(信長討伐令の呼びかけ)に応じる形で甲府を出発し上洛の軍を起こしました。まずは、徳川家康の領土である三河・遠江を攻撃します。もちろん織田信長と徳川家康は同盟国ですので、織田信長と武田信玄の関係も断絶となり、織田信忠と松姫様との婚約も破棄となりました。
そして1973年1月25日に、武田軍対徳川・織田の連合軍で起こったあの有名な三方ヶ原の戦いが行われ、武田軍の圧勝に終わったものの、武田信玄が喀血で倒れ止む無く甲斐に戻る途中、三河街道上にて亡くなってしまいました。歴史に『IF』は禁物ですが、武田信玄が病気で倒れずそのまま織田信長と本格的に対決していたらと思うと・・・歴史ファンとしてはちょっと残念ですね・・・。
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