『信松院』を訪問!武田信玄の四女の松姫様が創建されたお寺!戦国時代のロミオとジュリエット!

歴史
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松姫は出家し信松尼となる

1582年、本能寺の変の後、秋になり武蔵国多摩郡に戻ってきた松姫は、関東の雄である北条氏の庇護の元、心源院にて出家され法名を『信松尼』と称され、武田一族や織田信忠の冥福を祈っています。北条氏照(北条氏康の三男)の正室の比左の話し相手を務めていたという伝承もあるようです。

1590年、八王子の御所水の草庵に移り住みます。その庵が現在の信松院です。松姫は尼僧として生活しながら、子供達に読み書きを教え、養蚕をはじめます。蚕を育て織物を作り得た収入で、3人の姫を養育する日々を過ごしました。

1590年に豊臣秀吉による小田原征伐により北条氏が降伏した後に、関東に入ったのは徳川家康でした。徳川家康は甲信への備えの為に八王子千人同心を配置し、八王子には総代官として武田家旧臣の大久保長安が任命されました。八王子千人同心の多くが武田家の旧臣であり、松姫様は旧主である武田信玄公の姫様であったことから大久保長安も松姫にはいろいろな支援をしたでしょうし、武田家旧臣の心の拠り所になったでしょうね。

1598年に豊臣秀吉が亡くなり、1600年の関ケ原の戦いで徳川家康が勝利した後、天下は徳川家康のものとなり、徳川幕府が開かれ天下泰平の世が訪れることになります。

松姫が面倒を見ていた兄の仁科盛信の長男であった仁科信基は関ケ原の戦い以後、徳川家に3,100石の旗本として仕官しています。仁科盛信の娘であった督姫は出家しており1608年に亡くなられています。また、武田勝頼の娘である貞姫は宮原義久に嫁ぎ後に子供も産んでいます。松姫様ちゃんと兄弟の3人の子供を育てたんですね。偉い👏👏👏

松姫は実は1613年頃から、異母姉の見性尼(穴山梅雪正室)と共に、三代将軍の徳川家光の異母弟であり後の会津藩の初代藩主になる保科正之を預かって育てています。歴史の人間模様は複雑に絡み合っていますね。

1616年、信松尼(松姫)は周りの方に見守られながら56歳でお亡くなりになられました。もちろんお墓は信松院にあります。

戦国時代のロミオとジュリエット

松姫の法号は『信松尼』と称していますが、法号の『信』は父である武田信玄と織田信忠のどちらかか、或いは双方から取ったのではとも言われておりますが、多分、双方の名から取ったと推察されます。

武田家と織田家が手切れとなり、最終的には織田家が武田家を滅亡されることになります。織田信忠は武田家を総攻撃を命じながらも松姫の消息を探しており、武田家を滅亡させた後、松姫が武蔵国に逃れ住んでいることを知り、正室として迎えたいとの手紙を書いているのもビックリですよね。また、織田信忠の気持ちに対し、松姫も織田信忠様ならばと京都に向かっていることから本能寺の変がなければ、織田信忠の正室になっていたでしょう。本当に戦国時代に翻弄された激動の人生ですよね。

織田信忠は、正室を持たなかったので、松姫を正室にしたいという以降はずっと持っていたのでしょうね。まさに戦国時代のロミオとジュリエットですね。

なお、織田信忠の嫡男である三法師(後の織田信秀)は側室の塩川長光の娘との子とされていますが、松姫との間の子であるという説もあるようです。多分違うとは思いますが、もし本当に織田信忠と松姫が実際に会えていたら良かったですが・・・。

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