兄の仁科盛信の庇護で過ごす~武田勝頼の時代~
武田信玄亡き後、武田家を継いだのは四男の武田勝頼でした。それに伴い、松姫は兄である仁科盛信の庇護の元、信濃国の伊奈郡高遠城下の館に移りました。兄の仁科盛信は信濃の国衆の仁科家を継いでいたものの、もちろん武田信玄の五男でしたし、松姫とは同じ母親だったので可愛がってもらったと思われます。
武田家を継いだ武田勝頼は、当初はかなり頑張っています。亡き父の武田信玄ですら落とせなかった「高天神を制するものは遠州を制す」と謳われた遠江の最重要拠点・高天神城🏯を落とすなど健闘していたものの時代の流れは急速に覇王と呼ばれた織田信長に傾いてきました。
詳細は歴史が示す通りですが、個人的には、上杉謙信が突然亡くなり、上杉家の跡目争いが謙信の養子である上杉景勝と上杉景虎との間で起こった越後のお家騒動(御館の乱)に際し、上杉景勝側に味方した結果、関東の北条と敵対することになり、織田・徳川・北条と三方を敵に囲まれる状態となったことが武田家滅亡の遠因にもなったのは間違いないでしょうね。
また、皮肉なことに父の信玄ですら落とせなかった高天神城を武田方が落としたのは良かったのですが、遠江の重要な城としての位置付けられており、武田と徳川がしのぎを削る城であり度々衝突を繰り返しており、武田家としては遠江を維持する為には欠かせない城だったのですが、本国からかなり遠く、補給路が長くなり武田方にもかなりの負担になっていた可能性があります。
1580年10月、徳川家康による高天神城に対し兵糧攻めを開始。その時の高天神城の城将であったのが岡部元信です。主将の岡部から下の者に至るまでが連名した救援要請の書状が武田勝頼に届けられたものの、結局、武田勝頼は援軍を出さなかったため、城方は食料が無くなり降伏を申し出るものの徳川方から拒否され、1581年3月25日、城内から全員が討って出て玉砕し高天神城も陥落してしまいました。
この戦いの何がいけなかったかと言いますと、確かに当時の武田家は、織田・徳川・北条と三方を敵に囲まれており、なかなかすぐに援軍が出しづらい状況であったことは理解しますが、結果的には高天神城を見殺しした形となってしまいました。また、すぐに援軍には行けないので武田勝頼は降伏しても良いと知らせたという話もありますが、織田信長が降伏は認めない意向を徳川家康に指示していたという書状が残っていたので武田勝頼の信望を意図的に下げる狙いがあったともいわれています。援軍に行けないくらいなら高天神城を放棄して城兵を甲斐に引き上げるなどの方法があったと思いますが、城兵も玉砕してしまい、武田家の威信と信望を著しく低下させたことは間違いないでしょう。個人的には、この高天神城の最後が武田家滅亡の直接的な要因に繋がった戦いだったと思います。
※岡部元信といえばもともとは今川家に仕えており、あの有名な桶狭間の戦いの時には、尾張の鳴海城で織田軍と交戦していましたが、今川義元が討たれた後もしばらく城に留まり、開城の条件として主君の今川義元の御首の返還を求め、織田信長はその忠義に感動して、今川義元の首を丁重に棺に納めた上で送り届けたといいます。なかなか感動的なお話ですね👏👏👏
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