武田家滅亡~武田軍団の崩壊~
1581年、武田勝頼は韮崎に当たらな拠点として新府城の築城し、それまでの居館であった躑躅ヶ崎館から新府城から移りました。ただ、この新府城の築城費用や織田・徳川に対しての相次ぐ出兵などによる年貢や賦役の負担が領民に重くのりかかり人心が徐々に武田勝頼から離れていきます。
1582年2月1日、信玄の娘婿で木曾口の防衛を担当する木曽義昌が新府城築城のために賦役がさらに増大していることに不満を募らせ人質を織田信長に差し出し織田方に寝返りました。2月3日、織田信長はついに武田討伐を決意し動員令を発し織田信忠を総大将とする武田討伐を開始しました。御一門衆の一人で駿河江尻城代であった穴山信君も裏切ることになります。
そして、運が悪いことに織田軍の侵攻が始まった2月14日に浅間山が噴火しました。当時は、浅間山の噴火は東国で異変がある前兆であると考えられていたため、織田軍の侵攻時期と重なってしまい武田軍団の動揺は激しかったと推測されます。各地の武田軍は投降が相次ぎ抵抗なしい抵抗はほとんどなく、最終的に武田勝頼は3月11日は天目山にて自害され甲斐源氏の名門である武田家は滅亡してしまいました。1ヵ月ちょっとで滅亡するとは・・・。
松姫様の逃避行→八王子に逃れる→織田信忠からの迎えの手紙→本能寺の変へ
松姫はと言いますと、織田軍の侵攻の知らせを受けて、兄の仁科盛信によって、仁科盛信の嫡男で8歳の仁科信基と4歳の娘である督姫を連れて急いで新府城に戻りました。
兄の仁科盛信は、高遠城に立てこもり、織田信忠の大軍と戦い、奮闘したものの最後は自刃し、城兵500名も討ち死にしており華々しく散っており、武田家の意地を示しています。
織田軍の新府城に侵攻が迫る中、戻った松姫は、武田勝頼とは別行動を取り、武田勝頼の娘である貞姫なども連れて武蔵国多摩郡(現在の八王子)の金照庵という庵に落ち着きました。
金照庵に滞在中には、縁談の話もあったようですが松姫は辞退したそうです。そうした中、縁談破棄の相手であった織田信忠は、武田侵攻の中にあっても松姫の生存を信じ松姫を探索していたそうです。そして、武田家滅亡後、武蔵国多摩郡に松姫がいることを知った織田信忠は、改めて自分の正室に迎えたいと手紙を送りました。武田家侵攻の総大将であり武田家滅亡の張本人である相手でしたが、松姫はその申し出を受けることにしました。
ただ、織田信忠に輿入れしようと京都に向けて出発した松姫でしたが、1582年6月2日、織田信長の家臣である明智光秀が謀反を起こし本能寺の変にて織田信長を自刃に追い込み、同時に織田信忠も二条城にて討ち死してしまい、結局、織田信忠とは結婚出来ませんでした。この知らせを受けた松姫のショックは言葉にならなかったでしょう。
日本の歴史にとっても大きな年となった1582年には、兄の仁科盛信を亡くし、異母兄の武田勝頼を亡くし、そして波乱の末に結婚する予定であった織田信忠までもが亡くなり・・・こんな劇的で激動な人生を歩くとは想像だに出来なかったでしょうね。
コメント